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言論の多様性と発言の重要性について

 今日、我々は様々な情報に囲まれている。その中から、適切な情報を取捨選択する義務が現代社会を生きる我々に課せられている。このような社会を生きていくにあたり、単一の”信頼できる”情報源のみから情報が提供されるという世界を望む事があるかもしれない。しかしながら、それは間違いであり、言論の多様性を確保する事が、我々、というより政府の義務である。
 何故我々ではなく政府の義務でなくてはならないのか。その理由として、この言論の多様性には、他の言論の批評が含まれるからである。したがって、我々が言論の多様性を意識して、批判を控えようとする事は、結果的に言論の多様性を失わせてしまう事になる。そこで、政府がそれを保証することで、我々は自由に批評できる、という寸法である。
 それで、何故単一な情報源がある世界が間違いであるか、という事についてであるが、それは先の大戦時における言論統制や、いわゆる大本営発表を見てもらえば明白である。先程、政府が言論の多様性を保証する事について述べたが、しかし、政府は言論を抑制する事だってできる。実際に、戦時中では、自軍の死者を”玉砕者”と形容したりと、ずいぶん言葉遊びを捗らせて、国民を面白可笑しく弄していた。歴史に「もし」は厳禁とされているが、もし仮に情報源がいくつもあり、一つでもそれに歯向かう媒体があったのなら、その後の惨状は無かったのかもしれないのだ。
 結局、その反省を生かして、今の情報の普及に対して、多くの媒体が存在する訳だが、逆にそれが我々の負担になっていると感じる事がある。それは、「情報疲れ」という言葉に代表されるように、SNSの普及に伴って発生した情報の氾濫によるものだろう。
 そこで提案なのだが、ニュースや発信された意見について、コメントなどという生易しいものではなく、長文で意見を発信してみてはどうだろうか。もしかしたら、その情報が後世において重要な資料となる可能性もあるわけであり、また、結果的に言論の多様性の確保へとつながるので、批評してみる、という事は重要ではないだろうか。

 ……とはいうものの、実際、自分がそうしてみろと言われたところで、それは不可能に近い。何故なら、結局のところ、何かを批評することは、その意見でさえ反論される可能性があるからだ。反論する、という事は、自身のメンタルケアてきな面でも、あまりよろしいことではない。
 まあ、こんなブログの記事なんて、誰も見ないから、こんなに好き勝手発言できるだけなんでね。