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コロナ禍における日常記録の意義について

 不用意に批判されないために、コロナ禍における日常記録の意義について書き留めて置こうと思う。

 そもそもの発端は、自分が勝手に映像の世紀に感動したからである。映像の世紀には、もちろん映像や当時の出版物の他、個人の手記、という物がよく資料として登場する。
 であるならば、現代においても、このような個人の感想を残す事で、誰かの役に立つ事ができるのではないか、と思い始めたのがきっかけである。そして目的も同じである。
 自分のブログは、過疎っているのが常であり、多くの人に見られている事を前提としていない。なので、この自分の感想にいちゃもんを付けてくる人が出てくる、というのは稀であるだろうが、もしいちゃもんを付けたいのなら、ぜひ300文字以上でお願いしたい。
 情報の多様性は、未来において、その出来事を客観的に見るのに不可欠である。そのためには、陰謀論というものも認める事もまた一興であろう。
 ……最も、それがKKK的な扱いを受けたとしても。