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Tips: JavaScriptで等差数列・等比数列を作る。

前略

const len = 20;
const fst = 5;
const diff = 2;

const arr = new Array(len).fill(0).map((v, i) => fst + i * diff);

これで項数len,初項fst,公差diffの等差数列ができる。

 ちょっと変更すれば,等比数列だってできる。

const len=20;
const fts = 5;
const ratio = 2;

const arr = new Array(len).fill(0).map((v, i) => fst * ratio ** i);

これは項数len,初項fst,公比ratioの等比数列

引用の練習

――引用の量は全体の文の一割から二割程度なんて話をたまに聞く。しかし,自分にはどうもこの感覚が分からないのである。そこで今回,この記事を以て引用の練習をしようという魂胆である。

まず現段階においての引用文の扱いについて。

 その宗教は,多くの信者と絶大な社会的影響力を兼ね備えていながら,”カルト”と時々呼称される。その理由として挙げられるのは,やはり団体の性質と言える。実際に新聞社における世論調査において,この宗教の印象を訪ねた所,その多くが”良くない”あるいは”いい印象を持っていない”というものであった。その中の一人は,
「やはり日本において宗教に対する不信感は強大である。それが,特に社会的地位を保つというならば,よりいっそうだ」(引用元)と述べている。

こんな感じかな

じゃあこれをどう改良していくか,という話になるね。まあ,とりあえずパラグラフを意識して文頭に結論を持ってくる方法を取ってみる。

 日本における宗教への不信感は大きく,それがその宗教の別称”カルト”に影響している。その宗教は社会的影響が強い反面,カルトと呼ばれる。それは,日本人特有の宗教に対する疑念によるものである。実際に,ある新聞社が行った調査において,「やはり日本において宗教に対する不信感は強大である。それが,特に社会的地位を保つというならば,よりいっそうだ」という意見が見られた。

まあこんなかんじか。

小論文ってなんの意味があるん?

小論文の意味が分からない。

一般的な小論文の構成としては、大枠として問題提起から解決法の提示というのがある。
しかし、たかだ一個人、しかも、公衆の面前に晒される訳でもない小論文ごときで、一丁前に講釈を垂れ流すことに、なんの意味があるのだろうか?

「考え方を知ることができたら十分である」という考えもあるだろう。しかし、そのような小論文で見つけられる人材というものは、恐らく自省せず、ただひたすらに怠惰な感情のみに突き動かされ、大志という建前のもと、一生他人に要求し続けるような人だけではないだろうか。

まあ一意見なんで、すべて自分の感想なんですけどね。

言論の多様性と発言の重要性について

 今日、我々は様々な情報に囲まれている。その中から、適切な情報を取捨選択する義務が現代社会を生きる我々に課せられている。このような社会を生きていくにあたり、単一の”信頼できる”情報源のみから情報が提供されるという世界を望む事があるかもしれない。しかしながら、それは間違いであり、言論の多様性を確保する事が、我々、というより政府の義務である。
 何故我々ではなく政府の義務でなくてはならないのか。その理由として、この言論の多様性には、他の言論の批評が含まれるからである。したがって、我々が言論の多様性を意識して、批判を控えようとする事は、結果的に言論の多様性を失わせてしまう事になる。そこで、政府がそれを保証することで、我々は自由に批評できる、という寸法である。
 それで、何故単一な情報源がある世界が間違いであるか、という事についてであるが、それは先の大戦時における言論統制や、いわゆる大本営発表を見てもらえば明白である。先程、政府が言論の多様性を保証する事について述べたが、しかし、政府は言論を抑制する事だってできる。実際に、戦時中では、自軍の死者を”玉砕者”と形容したりと、ずいぶん言葉遊びを捗らせて、国民を面白可笑しく弄していた。歴史に「もし」は厳禁とされているが、もし仮に情報源がいくつもあり、一つでもそれに歯向かう媒体があったのなら、その後の惨状は無かったのかもしれないのだ。
 結局、その反省を生かして、今の情報の普及に対して、多くの媒体が存在する訳だが、逆にそれが我々の負担になっていると感じる事がある。それは、「情報疲れ」という言葉に代表されるように、SNSの普及に伴って発生した情報の氾濫によるものだろう。
 そこで提案なのだが、ニュースや発信された意見について、コメントなどという生易しいものではなく、長文で意見を発信してみてはどうだろうか。もしかしたら、その情報が後世において重要な資料となる可能性もあるわけであり、また、結果的に言論の多様性の確保へとつながるので、批評してみる、という事は重要ではないだろうか。

 ……とはいうものの、実際、自分がそうしてみろと言われたところで、それは不可能に近い。何故なら、結局のところ、何かを批評することは、その意見でさえ反論される可能性があるからだ。反論する、という事は、自身のメンタルケアてきな面でも、あまりよろしいことではない。
 まあ、こんなブログの記事なんて、誰も見ないから、こんなに好き勝手発言できるだけなんでね。

コロナ禍における日常記録(2)

 ヨハネ黙字録という書物の中に、四騎士という者たちが登場する。彼らは、それぞれ支配・飢餓・戦争・疫病の役割を持っており、封印が解かれた時に現れるとされている。この騎士たちの解釈として、未来で訪れる苦難というものを暗示している、というのが有名である。
 もし彼らが実在するとして、彼らは人類の歴史において、何回、現れたのだろうか。
 
 結局のところ、それは人類の歴史に於いて普遍に存在したと言えるだろう。実際に、私達人類は、スペイン風邪や、コレラといった疫病に直面してきたし、WWⅠやWWⅡといった戦争も多く経験してきた。
 ならば、現在のような、”未曾有の”がよく使われる現状でさえ、人類の歴史にとっては経験済みな事なのだろう。であるならば、きっと夜明けが来るのではないだろうか。今までと同じように。

コロナ禍における日常記録の意義について

 不用意に批判されないために、コロナ禍における日常記録の意義について書き留めて置こうと思う。

 そもそもの発端は、自分が勝手に映像の世紀に感動したからである。映像の世紀には、もちろん映像や当時の出版物の他、個人の手記、という物がよく資料として登場する。
 であるならば、現代においても、このような個人の感想を残す事で、誰かの役に立つ事ができるのではないか、と思い始めたのがきっかけである。そして目的も同じである。
 自分のブログは、過疎っているのが常であり、多くの人に見られている事を前提としていない。なので、この自分の感想にいちゃもんを付けてくる人が出てくる、というのは稀であるだろうが、もしいちゃもんを付けたいのなら、ぜひ300文字以上でお願いしたい。
 情報の多様性は、未来において、その出来事を客観的に見るのに不可欠である。そのためには、陰謀論というものも認める事もまた一興であろう。
 ……最も、それがKKK的な扱いを受けたとしても。

コロナ禍における日常記録(1)

 数回の緊急事態宣言や、まん延防止等重点措置を得て、コロナが流行し始めてから3回目のGWを迎える事になった。昨年に比べ、外出する人の数も増え、よりコロナに”親しみを感じる”、言い換えれば慣れてしまっている人が多くなってしまっているのが、現時点での状況と言える。
 最も、ワクチンや、相手の素性が分かってきたこともあるのだろう。基本的な感染対策をしていれば、感染する確率は下がる(最も例外として、例えば感染者と過ごした場合、リスクはとても高くなる、という事例もある)。
 そのような中、最近特に目に余るようになったのが、このような社会の潮流に逆らって、マスクを外してみたり、ワクチンの接種を拒んでみたり、という愚かな行為を行う人達の存在である。彼らは、あたかも自身が世界に関してその全てを知った気になっているようであり、このコロナウイルスの流行に関して、危険な微生物が入っているだとか、コロナはただの風邪であり、すべて茶番である、という流言飛語を信じ込んでいる。
 「――最も危険な存在は、活動的なバカである」という言葉は、ゲーテとかが言ったらしいが、彼らの存在はよくこの言葉が真実である事を証明していると言えるだろう。彼らは、その主張を鵜呑みにするだけでなく、実際に”愚かな人々”を救ってあげようと活動しているのだから。
 さて、我々の前には、多くの蜘蛛の糸がある。しかしながら、その蜘蛛が、無限地獄にいるものか、あるいは極楽にいるものか、私達は糸に飛びつく前に、見極める必要がある。